『茶髪禁止令』
日本水泳連盟は20日、都内で開いた理事会で、「茶髪、ピアス、華美なネイルは禁止」などとする競泳日本代表選手の行動規範を、飛び込み、水球、シンクロナイズド・スイミング、オープンウオーターの各代表選手に対しても適用することを決めた。4月から順守を求める。同連盟の泉正文専務理事は「競泳選手のために行動規範をまとめたが、同じ日本代表ならすべて適用しようという意見でまとまった」と説明した。
朝日新聞2010年2月21日
『丸刈りは美しい』らしい。
そのうちには冗談抜きで、日本を代表してオリンピックに参加する日本選手たちには男女ともに丸刈りを強制してもらう話に成りかねない。
今を先立つ10年前に早々と何とも時代錯誤のいかがわしい『品格騒動』(イジメ)を引き起こし、日本のスポーツ界として初めて選手(千葉すず)にスポーツ裁判所に提訴された日本水泳連盟が、今回は朝青龍や国母選手の品格騒動に便乗して『極めつけ』をやってくれたようです。
『国母選手と日本スキー連盟』
『行儀が悪い』を理由に国母選手の大会出場を阻もうとするなど『千葉すずの悲劇』の時と同じ前近代的な精神主義と権威主義を、日本のスポーツ界は何時まで続ける心算なのだろうか。
10年前のシドニーオリンピックで日本の女子自由形第一人者である千葉すず選手のマスコミでの発言が気に入らなかった日本水連は代表選考会で選考基準をクリアして優勝したにもかかわらず日本代表に選ばなかった事件を思い出される不愉快な事件です。
それぞれの選手の言動を批判することは一向に構わない。
大いに批判はやるべきですが、しかし言動(品格や行儀作法)を理由にして競技に参加させないなどは、競技団体としての存在理由そのものを問われている。
競技団体とは、選手が試合で実力を発揮できるようにサポートすることが本来の役目ですよ。
ところが一番成績の良い朝青龍や千葉すずでは試合に出ることを競技団体が阻止したのです。
今回も日本スキー連盟が国母選手の品格を理由に試合出場を妨害し、強制帰国(本国召還)させ様としていたのです。
こんな選手の試合参加を阻む競技団体は、そもそもの存在理由が有りません。
日本のためにも個々の選手の為にも即刻解散して組織に巣くう頑迷固陋なアナクロリズムの長老たちを追放して根本から改革するべきです。
『美や品格は個人の主観(内心)』
『美しい』とか『品格がある』とかには科学的な客観的基準が有るわけではなく主観の問題なので、自民党の安倍晋三首相の『美しい国』が(客観的で有るはずの)政治的スローガンであるよりも宗教的な意味合いがあり、何とも奇怪で胡散臭い。
我々一般市民にとっては意味不明、理解不能なのですが、今回の国母選手の『見苦しい』(美しくない)『品格』といくらかは関連してくる。
あの格好は『プロ』のスノボ選手の国母和宏にとっては『服装の乱れ』どころか『正装』らしいのですよ。
個人によって美とか品格の基準が違い、他人と同じ格好をするほうがスノーボーダーにとっては『恥ずかしい行為である』に変化する。
これは東京オリンピックの時、他国の選手団に比べて最大人数の日本選手団がほかの国が誰も真似できない一糸乱れぬ分列行進をして(おまけに)しかもファシスト党のムッソリーニそっくりの片手を高々と挙げる敬礼(挨拶)をして外国人たちの顰蹙をかったことがあるが、あれと全く同じで基準となる『美』や『品格』(内心)が根本的に違う。
同じ完璧な分列行進を美しいと見るか恐ろしい(醜い)と見るかは、見られる側の問題以前に、『見る側の主観』(内心)の問題なのです。
外国人でなくとも、同じ日本人でも高校野球の甲子園の開会式の入場行進を、『美しい』と思う人が沢山いる。
ところが私のように正反対に神宮外苑の学徒動員の映像を思い出して不愉快で『見苦しい』と思う人もいる。
基準が其々違うから『個性』であり、『違うから悪い』にはならず、『違うことは良いこと』であり『存在理由が有る』とも考えられる。
イヤホーンで音楽を聴きながら演技するのが当たり前のスノーボードの世界で、しかも団体競技なら集団との調和は大事かもしれませんが個人競技の世界大会で勝つため秘訣は『誰にもない、その人独自の個性』や『創意工夫』であり、周りと違う『独創性』ですが、全日本スキー連盟(SAJ)や日本オリンピック委員会(JOC)は大相撲と同じ伝統芸能の様式美を追及する心算の様です。
個人の主観に過ぎない『品格』とか『美意識』とかが『普遍的な価値観』で有るとでも勘違いしているのでしょうか。
『主観、客観の意味するものは』
主観については、『何が美しいか。?』『何が品格となるか。?』などはそれぞれの個人個人や、個人の集合体としての集団により異なっており、個人の主観(内心)にすぎない。
美しさや品格に夫々違いが有り、その『違い』を尊重することが民主主義の基本で、今回の国母騒動や朝青龍騒動のような多数決原理だけなら民主主義ではなく全体主義(ファシズム)になる。
何故なら個人の『内心』とは聖域であり、『何人たりとも犯されない権利が有る』とするのが民主主義の根幹である基本的人権の根本的な考え方です。
客観については、
我々一般の市民でも、政治や軍事、経済などでは自分(個人)が如何思うか(内心)など、観念的な問題はどれ程の意味もない。
この場合には、『事実は如何であるか』等の唯物的な問題だけが問題となる。
軍事では田母神のように(自分は)『如何解釈できるか』は何の意味も無いのですが、可哀想に彼には主観と客観の区別がついていないのです。
『軍事』では正しい現状認識が全てに優先されるのです。
正しい現実認識が出来なければ命が無くなるという意味では登山なんかもこれに当てはまる。
自分(あるいは他の誰か)が何を思うかではなく、『現実の事実は如何なっているのか』だけが意味がある問題も世の中には多くある。
政治、経済、軍事、外交、科学などはこれに当てはなるでしょう。
軍事や経済など政治問題では科学的事実から離れた内心の自由はそもそも存在しない。
『マリーシア』
旧軍の話ですが、彼等は悪いことでも戦闘(戦争)に利用できそうなことは何でも奨励していたのです。
勝負の結果(勝ち)だけに関心があり、それ以外(品格?)なんかは何の価値観も見いだしていなかった。
例えば軍隊内の泥棒は見つからなければ良い事として奨励されていて、厳しく罰せられたのは被害者の方だったのです。
しかし、周りの他の兵士から盗めばその結果がどうなるかが判っているので私の父は盗まなかった(自分の主義が邪魔して盗めなかった)。結果、毎度毎度凄まじい凄惨な制裁が行われることになる。
スポーツ用語のマリーシアとは、
元々はポルトガル語で『ずる賢さ』を表す単語で、主にサッカー界で使われるが意味するところは、『審判にバレない反則は反則とは呼ばない。それは高等技術と呼ぶ。』で、ネガティブな意味で使われることは少なく、一流選手の証が『如何にマリーシアを行えるか』なのですが、
今の日本のサッカーが日韓共催のワールドカップ以外には一勝も出来ない原因も多分マリーシアを行う技量がないからでしょう。
そして旧軍はマリーシアのオンパレードだったのです。
勝つためには何でも有りで許されるが、其の反対に正直に規則を守って負ければ厳しい制裁がまっている。
マリーシアの意味の『反則ぎりぎり』どころか、『反則そのもの』までも奨励していたのです。
軍隊内での銃剣術の稽古では敗者には理由のいかんを問わず苛酷な制裁が課せられる。
旧軍のこの体質を知り抜いていた私の父親は『はじめ』の号令がかかる前に攻撃して油断している(規則を守っている)相手に連戦連勝する。
何しろ亀田の弟ばりに銃剣術の規則にない投げ技や足技や拳闘など反則なら『何でも有り』。これを叱るどころか上官は『敢闘精神が有る』として褒め称えていた。
日本のやった戦争は日清戦争でも日露戦争でも対中戦争でも対米戦争でも全てが(マリーシア的な)宣戦布告前の奇襲攻撃で始まっています。
『勝敗を争う競技(スポーツ)の価値観は「強さ」以外にはない』
大相撲の横綱の品格など、元々横綱には品格が有るのではなく(強い横綱に対して)周りがみんなして『横綱の品格を認める』から『品格有る横綱』が生まれる。
JOCや日本水泳連盟や日本スキー連盟や日本相撲協会などの考えている『品格』と『強さ』の関係は完璧に間違っているのです。
物ごとの順番が逆なのです。
スノボに限らずオリンピックのような世界大会で優勝する為には『品格が有る』は邪魔にこそなれ、何の役にも立たないのは勝敗を争うスポーツの世界の常識なのです。
『品格が有る』の正反対の『マリーシアを行える者』が勝つ。
ですからJOCや日本スキー連盟は『勝つな』と言っているに等しい事になります。
そして勝者には『品格』(正義?)も同時に付いて来る構造になっている。
全ての競技スポーツの世界では『横綱の品格』とまったく同じで、JOCの考えとは逆に、勝った者(メダリスト)に(周りが認めるので)品格が生まれてくるのです。
『相手の嫌がることを積極的にするのが勝負師』
一般社会の品格(礼儀)とは異なり、『得意技を出させず』相手の弱点を攻めるのが勝負の世界の『品格』で、相手に合わせて『得意技を出させる様に協力する』のはスポーツとは言い難いプロレスなど見世物の世界である。
勝負の世界では、余程の実力差があり絶対に勝てる相手なら相手のやりたいようにやらせるが、普通は『相手の良さをいかに殺すか』に全力を尽くして努力するのです。
だから自分が勝てる。
昔まわしを取れば横綱大関といえども吊り出しで勝てる明武谷という角界一の長身力士がいたのですが、対戦相手は明武谷がまわしを取れば滅法強いことを良く知っているので突っ張りが得意でない力士までが明武谷相手の時は突っ張って離れて相撲を取る。
両まわしを明武谷にがっちり取られて勝てる力士はそれほどいなかったのです。
だから対戦力士は必ず突っ張ったし横綱や大関でもやっぱり突っ張っていたが、相撲が面白かった時代の力士たちは今の朝青龍のように勝負に拘っていたのですよ。
だから相撲はスポーツであったのでしょう。
対戦相手の弱点を攻めずに、相手選手が庇う様では最早スポーツではなくなっている。
網膜剥離でスポーツ生命に危険があるのでライセンスを取り消されていた元チャンピオン辰吉丈一郎の顔面を狙って殴るのが本当の勝負師といえるでしょう。
『実力の世界ではマリーシアが勝敗を分ける』
勝敗を争うスポーツでは如何に規則違反で失格にならない程度の悪事を働くことが出来るかで勝ち負けや一流と二流が決まるのです。
対戦相手に下剤入りオレンジを贈るなどは判らなければ大成功。体格のない10000メートルの松野明美がマラソンに転向したかった理由は体格の良い外国人選手の走行妨害のマリーシアを嫌っての事で、わざと体をぶつけるなどはトラックレースではある意味当たり前の常識ごと。
スキーのノルデック競技で一位になるような選手はマーリーシアでも一流で、わざとストックで他の選手を妨害したりスキー板を踏む反則になる一歩手前の汚い事が出来る選手だけが一流といわれている。
意識的に汚い事(マリーシア)が出来ない選手は二流でコンスタントには勝てない。
将棋の世界で数々の記録を打ち立てた大山康晴は、もちろん実力でも他の追従を許さない抜きん出た超実力者だったが、対戦相手が煙草嫌いならわざと煙を顔に吹きかけたり寒がっていたら立ち上がって窓を開けるなど勝つためには小さな汚い事も怠らなかったが、まさに勝負師の鏡ですね。
スポーツ(競技)では負けたものには意味が無く、勝つことだけに意味がある。勝つものが正義なのです。
そして旧日本軍は誰よりも其の事実を良く知っていたが、敗戦から65年が平和に戦争無く経過して何時の間にか『勝てば官軍、負ければ賊軍』の厳しい掟、かっての日本人全員が知っていた『知識』(常識)は完全に失われてしまったのだろうか。?
本来は勝敗を争うスポーツの世界で、日本だけは正反対の『勝敗よりも品格重視』の世の中になっている様だが、何故このように日本人は『極端』から『極端』に走って仕舞うのだろうか。?
旧軍の常識は間違いで、たしかに短期戦では戦場の勝敗が絶対的な価値観だが、何年にもわたる長期の全面戦争では『戦争の大儀』(戦を行うための正義のスローガン)こそが勝敗を決定するの最大の要素であった。
ところが旧日本軍の徹底した『目の前の勝敗重視』の正反対の、現在の日本のスポーツ界の勝負事における『実力よりも品格重視』は競技(スポーツ)の根本原理(価値観)を無視した『スポーツの自己否定』に過ぎない愚行に他ならない。